「映画・ほたるの墓」

著作:中島勝大
(2008.07.19.


 夏である。
 朝から蝉の声で目覚めた。朝のまだ涼しいうちに、部屋の掃除をしようと、グレーっぽい半パンと白いランニングシャツを着た。
 この白いランニングシャツというのは、舞台で衣装の下に汗取り用として使うのだが、わりと気に入っていて、
 普段家にいる時でもよく着る。

 Tシャツよりやはり涼しい。以前にも、突然、茶髪の坊主でライブを行い、お客様をビックリさせた事があったが、
 夏はやっぱり坊主が涼しいし朝シャンの必要もないし、舞台の仕事もしばらく考えてないし、ライブは坊主で出来るし
 (舞台も”かつら”という手もある)、元来、無精者の僕は、ヘアースタイルを整えるのが嫌いで
 舞台の仕事で長髪の時でも、床屋さんでのオーダーは
 「仕事の関係で出来るだけブラッシングで整うように」と、わりと細かく注文していた。

 それでも家に帰ってから、自分で細部を直す事が多かった。とにかく3〜4回のブラッシングで整うようにカットするのは、
 お気に入りのスタイリストでも難しいようだ。という事で今はまたもや坊主である。

 掃除を終えてうちわであおいでいる。そんな僕の姿が、ついていないテレビの画面に写っているのを見て、
 つい役者の悪い癖が出てしまい「戦後の子供みたいだ。あと20才若かったら、
 映画・ほたるの墓のお兄ちゃん役が似合いそうだな・・・あんな哀しい役は、きっと演っててつらいだろうな」
 などと考えながら、あの哀しい映画を思いだしていた。僕は今までにあの映画を2回観た。
 一度目は哀しすぎてショックを受けた。
 二度目は友達が「どうしても!」と言うので気がすすまなかったが観てしまった。

 思ったとおり、一度目と同様、哀しすぎて観た後、立ち直るのに時間がかかった。
 毎年夏になると、テレビで再放送されるが、それ以来僕はあの映画を観る事が出来ない。
 妹が死んだ時の兄の悲しみの大きさ、彼の無表情な顔、そしてその兄の死ぬ場面の、彼の瞳のうつろさ、
 人生の哀しみすべてをあの若さで知ってしまった兄の、「この世に何の名残もない」 とでも言いたげなその様子。
 やはり哀しすぎて、あの映画を観る事は出来ない。

 テレビの画面に写った自分の姿を見て、その顔に彼の感情を写そうとしている自分に腹立たしさを感じながら
 もし、その役を自分が演ったら、どんなに落ち込んでしまうだろうと考えた。

 哀しい役者の習性と、自分はその”役者”なのだという事を思い知った、夏の朝であった。



2008年09月09日更新